大判例

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大森簡易裁判所 昭和48年(う)207号 判決

主文

被告人両名をそれぞれ科料二、〇〇〇円に処する。

右科料を完納することができないときは、金一、〇〇〇円を一日に換算した期間、その被告人を労役場に留置する。

訴訟費用中、昭和五二年三月四日証人福田憲一に支給した分及び同年一一月一五日証人菊川佳宣に支給した分を除き被告人両名の連帯負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人両名は共謀のうえ、昭和四八年一月二八日午前七時一〇分ころ、東京都大田区蒲田五丁目九番一五号付近道路において、同所に設置されている東電広告株式会社管理にかかる電柱(本蒲六三号)にその管理者の承諾を得ないで、「民青とともに歩もう国政革新の道をヤングジヤンプ73」等と記載した立看板(全長約1.6メートル、幅約三七センチメートル)二枚を紙ひもで結びつけ、もつてみだりに他人の工作物にはり札をしたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

刑法六〇条、軽犯罪法一条三三号前段、刑法一八条、刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条

(量刑の理由)

被告人両名は、犯行時においてまだ若年であり、前科前歴もなく、健全な社会生活を営んでいた勤労青年であること、本件当日取りつけた立看板は本蒲六三号の電柱に対する二枚だけであること、本件犯行後既に六年有余を経ていること等を考慮すると、被告人両名に対し刑を免除するのが相当であると考えられなくもないが、被告人両名は、逮捕されて交番へ連行された後逃走していること、本件と同種の立看板二枚を本蒲二六〇号の電柱に取りつけを終えようとしていたほか他に二一枚の同種立看板を順次他の電柱に取りつける目的で太陽神戸銀行蒲田支店前に用意していたこと、今日まで自己の行為の正当性を主張して活動を継続している事実等に照らすと、未だ刑を免除するのは相当ではないと考える。

従つて、主文のとおりの刑が相当であると思料する。

(弁護人の主張に対する判断)

一  弁護人村野守義、同船尾徹、同荒井新二、同田中晴男、同清見栄、同城崎雅彦及び同酒井和(以下「弁護人ら」という。)は、被告人両名が本件立看板を本蒲六三号の電柱に紙ひもで結びつけた行為は、軽犯罪法一条三三号前段の「はり札をした」という構成要件に該当しないから無罪であると、主張する。

その主たる根拠は、

1  立看板は、「はり札」に当らない。屋外広告物法及び東京都屋外広告物条例によれば、「立看板」と「はり札」は区別して書き分けられており、殊に同法七条四項では「立看板」とは木わくに紙張り若しくは布張りをし、又はベニヤ板、プラスチツク板その他のこれらに類するものに紙をはり、容易に取りはずすことができる状態で立てられ、又は工作物等に立て掛けられているものに限る、「はり札」とはベニヤ板、プラスチツク板その他これらに類するものに紙をはり、容易に取りはずすことができる状態で工作物等に取りつけられているものに限る、と規定されていて、はり札は工作物に全面的に付着している状態又はそのような状態に設置されることを予定した構造をもつた広告物件、立看板は立てられ又は立て掛けられることを予定した態様の構造をもつた広告物件であることが認められるので、両者は明らかに異なるものと解される外、日常用語としても両者は異なること多言を要しない。このことは、軽犯罪法一条三三号前段の「はり札」とは何かを考える場合重要であつて、法律上同じ文言が使用されているときは、これを統一的に解するのが正しい。そうすると、屋外広告物法に規定されている「はり札」という文言も軽犯罪法一条三三号前段で規定されている「はり札」という文言も同じ意味に理解すべきものと考える。よつて、立看板は「はり札」に当らない。

2  既に述べたように立看板それ自体は、「はり札」とは異なるが、「付着」の程度のありようによつては、立看板もはり札と法律上同視し得る場合がある。そこで、はり札の機能に着目して考察すれば、立看板を紙ひも等で電柱に結びつけて固定させた場合、その固定の程度がはり紙のように対象物に全面的に付着させられていわば地球の引力に抗して非自立的に付着させられた状態、これを立看板にあてはめて比喩的にいうならば、立看板の脚部を切断しても看板自体が地面に落下することがない程度に電柱に付着させられたときは、その立看板は「はり札」としての機能と役割を果しているので、「はり札をした」に当ると解して差し支えない。

ところが、本件において被告人両名が本蒲六三号の電柱に紙ひもで結びつけた二枚の立看板は、いずれもその最上部のみが電柱に接し脚部の方は電柱から幾らか隔てて立てかけられたうえ、倒れないように紙ひもで一重に結えて付着させられたものであるから、その程度の付着では未だ「はり札をした」に当らない。

という二点に尽きるものと考えられる。

なるほど屋外広告物法によれば、立看板とはり札とは区別して書き分けられており、同法七条四項には所論のような定義規定が存在するけれども、同法は都市における美観風致を維持し、及び公衆に対する危害を防止するため屋外広告物の表示の場所及び方法並びに屋外広告物を掲出する物件の設置及び維持について必要な規制を設けたものであるが、軽犯罪法は、人の日常生活における最低限度の道徳律に違反する行為すなわち社会倫理的にみて軽度の非難に値する行為で、その法益侵害による違法性の程度の軽微な行為を取り上げ、これらの行為に対して軽微な制裁を科することにより社会の秩序を維持しようとするものであるところ、同法一条三三号前段は美観等の侵害の有無にかかわらず他人の家屋その他の工作物(以下「他人の工作物」という。)に対しみだりにはり札をした行為自体を他人の工作物に関する財産権、管理権の侵害として処罰しようとするものであつて、両者は立法の趣旨、目的及び保護法益を異にしているのであるから、仮に双方に同一の文言が用いられている場合でも、必ずしも統一的に解釈しなければならないものではない。殊に屋外広告物法七条四項中の「はり札」及び「立看板」についての定義は、同項の条文によれば「以下この項において同じ。」とあつて、同項止りの用語の意義を定めたものであることが明らかである。そして、軽犯罪法一条三三号前段の「みだりに他人の家屋その他の工作物にはり札をし」という規定は、同法の施行に伴い廃止された警察犯処罰令の三条一五号に既に「濫ニ他人ノ家屋其ノ工作物……ニ貼紙ヲ為シ」とあつた規定を軽犯罪法の制定にあたつて他人の工作物にはられる物の材料は紙に限られるものではないということから、前記のように改められた経緯及び罪刑法定主義に照らすと、他人の工作物にはられる物は札の形状を備えている物でありさえすれば、その材料の如何を問わないものと解するのが相当であつて、同法の制定によつて「はり札」という特別の物が出来たと解するのは正当ではないと考える。すなわち、例えばポスターを電柱に糊付けしてはれば「はり札をした」といえるが、それだからといつてはられたポスターが「はり札」に変容するわけではない。ポスターはあくまでもポスターであつてポスター以外の何物でもない。そうすると、軽犯罪法一条三三号前段は、屋外広告物法と全く同じ意味内容の「はり札」という文言を使用しているとは解されない(ちなみに、同法は「はり紙」をも「はり札」と区別して規定している。)ので、軽犯罪法一条三三号前段の「はり札をした」という構成要件に該当する行為の有無を考える場合には、はられる物が札の形状を備えている物かどうか、そしてそういう物がはられたのかどうかという二点からその存否をきめるのが正当であると考える。

いうまでもなく、立看板は看板の一種であつて、主として道路に立てられるものをいうが、看板とはもともと商店の屋号とか商品名等を記載し、又は興行物の外題とか役者の名前等を記載して掲げたものをいい、その大きさや形状においてはさまざまのものがあり、必ずしも札の形状を備えているものとばかりとはいえないけれども〈証拠〉によれば、本件の立看板二枚は全長約1.6メートル(但し、脚部の長さ約二〇センチメートル)、幅約三七センチメートルの長方形のものであつて木の枠に紙張りしたものであるから、札の形状を備えているものと認めるのが相当である。

そこで、このような立看板を電柱に紙ひもで結びつけたことが「はり札をした」と解されるかどうかは、「はる」という行為の意味を検討して判断することが必要である。「はる」というのは、紙や板等を糊・釘・ひも等で他の物に付着させる一切の行為をいい、敢えて他の物に全面的に付着させることまでを必要としないばかりか、付着の程度についてはこれを問わないと解するのが相当である。そのわけは、付着の対象物が電柱等のような円い物体の場合を考えてみると、付着させる物によつては電柱に全面的に付着させることがもともと物理的に困難又は不可能な場合があるほか物理的には可能であるのに全面的に付着させなかつた場合には犯罪が成立しないとすると、全面的な付着とはどういう状態を指すのか一義的に明確でないきらいがあるし、ビラ等を糊でべつたりはつても、その上下二ケ所の一部をセロテープでとめても共に「はる」という行為が行われたことは間違いがなくただはられた程度、状態に差異が認められるに過ぎないと解されるからである。

従つて、本件のように立看板二枚を電柱に立てかけ倒れないように紙ひもで結びつけた行為は、「はる」行為に該当する。これと異なる弁護人の主張(但し、立看板をひも等で電柱にしつかり結びつけ脚部を切断しても看板が落ちない程度に付着させた場合が、「はり札をした」という構成要件を充足させることは、当裁判所も全く正当であると考える。)は理由がない。

二弁護人らは、軽犯罪法一条三三号前段で処罰されるのは「みだりに」他人の工作物にはり札をした場合であるが、その「みだりに」とは、一般にはり札をするにつき社会通念上正当な理由があると認められない場合を指称すると解されており、被告人らの本件立看板取付行為はその目的、貼付方法、場所柄及び保護法益等から正に社会通念上正当視される行為と解されるので、「みだりに」という要件に該当しないから無罪(公訴棄却)の判決を求めると主張する。

その理由は、

まず、軽犯罪法一条三三号前段の保護法益は、他人の工作物に関する財産権、管理権であるが、憲法二九条によれば、財産権の内容は公共の福祉に適合するように、法律でこれを定めるという制約があるところ、表現の自由については、憲法二一条によれば、公共の福祉による制約が規定されていないので、憲法上財産権に優越する保障がなされているものと解される。とすれば、本件立看板の内容は政治的意見を表明するものであるから、電柱の所有権、管理権に優越して保障されなければならない。従つて、「みだりに」の解釈は、このような表現の自由の優越性の観点に立つて判断することが必要であるから、極めて厳格にすることが要請される。

次に、被告人両名が立看板を電柱に取りつけた目的、動機は、民主青年同盟東京都委員会主催による「ヤングジヤンプ73」という青年の集会への参加呼びかけのための宣伝と会場である大田体育館への道案内を示すために行つたもので、その立看板には「民青とともに歩もう国政革新の道をヤングジヤンプ73」等が極めて美しく記載されており、取りつけの手段・方法及び場所は、本蒲六三号の電柱に既に取りつけられていた蒲田駅東口町会の立看板の脇へ、しかも東電広告株式会社が取りつけた巻付広告の下の電柱空間に、歩道上の通行人に見易いように立てかけ、通行人に対する危害の防止と集会終了後の撤去を容易にするため紙ひもで結びつけたものであり、また本蒲六三号の電柱の設置されている場所は、国電蒲田駅東口広場の近くで、そこにはあらゆる種類の広告物が氾濫していて、周囲の環境から立看板の取りつけを禁止しなければならない場所柄ではないこと、そして、被告人両名が本件の立看板二枚を取りつけた電柱空間については、東電広告株式会社は東京都屋外広告物条例六条八号(昭和五一年条例四〇号による改正後は九号とない。)、同条例施行規則九条、別表三によつて他の広告物を取りつけることができないので、同社の管理権(その実体は電柱を広告媒体として使用収益する権利すなわち営業権)が及ばないから、被告人両名の行為は同社の管理権を侵害していないこと、しかも本件立看板二枚は同社の取りつけた巻付広告の下に紙ひもで結びつけたものであるから、何等同社の管理権を侵害していないこと、仮に、東電広告株式会社の電柱に対する管理権一般を法益であると考えても、同社は年数回思い出したように電柱を見回る程度なので、これを通常の管理権の行使と同等にとらえることはできないから、権利の上に眠るものは、それだけ受忍義務があるので、同社に被害があるとすれば主観的な迷惑感情に過ぎないから法律の保護に値しないし、既に冒頭で述べたように政治的表現の自由は商業的営業の自由に優越するから、被告人の行為は「みだりに」したとはいえない。それにもかかわらず被告人両名が本件立看板取付行為につき、「みだりに」したとして逮捕及び起訴されたのは、被告人両名が民主青年同盟員であつたことによるものであつて、それが違法、不当なものであることは後述するとおりである。このように被告人両名に対する逮捕及び起訴は民主青年同盟に対する弾圧の目的で行われたものであるから、軽犯罪法四条に違反する。

というにある。

そこで、検討するに、軽犯罪法一条三三号前段の保護法益は、主として他人の工作物に関する財産権、管理権であるから、「みだりに」とは「他人の工作物の所有者、管理者の承諾を得ることなく、かつ社会通念上是認し得る理由もないこと」を意味する。従つて、他人の工作物の所有者、管理者の承諾のある場合にはこれに当らないが、承諾のない場合でも社会通念上是認し得る理由がある場合には、これに当らないと解するのが相当である。

ところで、はられたビラ等が何等かの思想を表明するものである場合には、憲法上表現の自由が厚く保障されているので、ビラ等をはられた工作物の所有者、管理者は無条件でこれを容認しなければならないと解すると、ことビラはりに関しては、その所有者、管理者の所有権、管理権の保護はなきに等しいことになるが、憲法上表現の自由がそれ程厚く保障されていると解するのは疑問である。

なるほど憲法二九条には憲法二一条と異なり公共の福祉という言葉が使われているが、それは、財産権については人権の実質的公平な保障を確保するために、各種の制約が特に予想されるという理由によるだけの話であり、そこに公共の福祉という言葉があることによつて、財産権の保障の程度や性質が他の人権の場合と違うというようなことはあり得ないと解するのが正当であるから、他人の工作物の所有者、管理者の承諾を要件として相衝突する権利の調節をはかることは、公共の福祉に沿うゆえんであり、その程度の制約はやむを得ないこととして容認されなければならないと考える。要するに、軽犯罪法一条三三号前段は、はられたビラの内容如何にかかわらず他人の工作物の所有者、管理者の承諾を得ないはり札行為自体を一律に規制し、社会の秩序を維持しようとするものであるから、ビラ等をはつた動機、目的が正当であつたかどうか、またその手段、方法及び場所等が相当であつたかどうかは、元来問うところではないのであるが、例外として、例えば車両で走行中たまたま道路に陥没が生じているのを発見した者がこれをそのままにしておくと重大な事故が発生する危険があると判断して、関係機関による応急の措置がとられるまでの間とりあえず車両の見易い電柱等に管理者の承諾を得ないでその旨の警告と事故防止の記載をした紙等をはつた場合等の如きは、社会通念上是認し得る理由があると考えられるので、違法性を阻却すると解する。

本件において、弁護人らの主張する理由だけでは未だ社会通念上是認し得る理由があると認めることはできない(なお、所論の電柱空間については、東電広告株式会社は、同社の取りつけた広告物の効用を維持するため同社の承諾なくしてはられた広告物を処理する業務をも有していることは証人宮田進の当公判廷における供述によつて認められるところであり、また電柱に管理者の承諾を得ないではり札をすること自体が実害であるから、東電広告株式会社の取りつけた巻付広告の広告としての効用が害されたかどうかは問うところではない。そして、証人宮田進の当公判廷における供述によれば、東電広告株式会社としては人手不足により、同社の承諾を得ないで電柱にはられたビラ、立看板等を残らず除去することが困難な事情にあることが認められるので、所論のように同社に受忍義務があるとか法の保護に値する権利の行使がない等と解することはできない。)ので、被告人両名が東電広告株式会社の承諾を得ないで、同会社の管理する本蒲六三号の電柱に本件立看板二枚を紙ひもで結びつけた行為は、同会社の右電柱に対する管理権(証人宮田進の当公判廷における供述によれば、東電広告株式会社は、東京電力株式会社との契約に基き同会社の所有する配電線用電柱を有料で広告の媒体として一般の広告主に使用させる権利を独占し(排他的に保有し)、東電広告株式会社としては、右契約に基く権利を行使するため配電線用電柱を管理していることが認められる。)を侵害したもので、違法であることを免れない。そして被告人両名に対する逮捕及び公訴の提起が民主青年同盟弾圧の目的でなされたと認め又は推認させる証拠はない。

なお、軽犯罪法一条三三号前段の規定が憲法二一条に違反しないことは最高裁判所の判例(昭和四五年六月一七日判決、判例集二四巻六号二八〇頁)によつて明らかであるほか、前示説示のとおりである。すなわち、同規定は、ビラ等に表現された思想内容についてはこれを些かも規制しようとするものではなく(換言すれば、そこに表現された思想内容を検討し、その内容如何によつて犯罪の成否を決しようとするものではなく)表現の手段の使用にあたつて権利の乱用に亘らないよう他人の工作物の所有者、管理者の承諾を要件として必要最少限度の規制を定めたものであるから、憲法二一条に違反するものではない。

三弁護人らは、電柱は道路という公共空間に存在することによつて私人の家屋その他の工作物と異なり本来的に広告媒体としての機能を有しており、かつ電柱は公共性の強い東電広告株式会社が管理する工作物であるから、私人の家屋その他の工作物と同列に扱つて一律に処罰することは社会的合理性がないと解されるところ、電柱については広告媒体として東京都屋外広告物条例六条八号(昭和五一年条例四〇号による改正後は九号となる。)、同条例施行規則九条、別表三により電柱の所有者、管理者といえども使用収益し得えない電柱空間が生じたためこの電柱空間は、国民の日常生活におけるさまざまな要求や情報等の伝達の場として広く使用されるようになつたが、それはこの電柱空間が本来国民のための空間である道路上に存在しているためその使用が社会的に許容されているからであると考えられるので、公共的性格の強い電柱の広告媒体としての在り方は電柱の所有者、管理者が広告媒体として使用し得ない右電柱空間を国民の掲示板として東電広告株式会社の承諾を要しないで、国や地方自治体と同様国民誰しも平等に使用することが許されるべきであると解するのが正当であると主張する。

しかし、公共性の強い団体の管理する工作物(電柱も含む。)であろうと、私人の管理する工作物であろうと、他の者がこれを使用することを欲する場合に、その団体や私人の意思を度外視して勝手に使用することができると解することはできない。そしてこのように解することは、団体や私人の管理する工作物が道路上に存在する場合とその他の場所に存在する場合とで解釈を異にするものではない。

本件電柱は東電広告株式会社の管理する工作物であるから、同社の定めた規定に従つて使用すべきもので、同社に断りなく使用が許されると解する弁護人らの主張は、独自の見解であつて、採用することができない。

なお、電柱を利用する広告物については、昭和三二年一〇月二二日東京都屋外広告物条例施行規則(東京都規則一二三号)九条、別表一規格五(一)により広告物の形状は塗・まとい付広告(巻)及び添架広告(袖)の二種類とし、路面から広告下欄までの高さは、前者については1.20メートル、後者については車道4.50メートル、歩車道の区別のないもの4.50メートル、歩道3.50メートルと定められ、その後同四六年東京都規則五一号により別表一を別表二と、同四七年東京都規則一〇三号により別表二を別表三と、それぞれ読み替えることになり、同五二年東京都規則一七号により塗・まとい付(巻)広告が当初の1.20メートルから1.20メートル以上に改められたものである。

四弁護人らは、東京都屋外広告物条例五条二項では非営利の目的のために表示する立看板で同条例施行規則で定めるもの、すなわち同規則八条二項一号イの政党その他の政治団体、労働組合等の団体又は個人の政治活動又は労働運動として行う宣伝並びに集会、行事及び催物類を表示する立看板である同項二号ないし五号の要件を具備するものをその規制から除外している(本件立看板は正に右要件を具備している。)のに軽犯罪法一条三三号前段で処罰することは、同法が屋外広告物法及び右都条例と立法の趣旨、目的及び保護法益を異にするとはいえ両者の運用の実態に照らすと、従来同一の事案に対し両者が競合的に適用されてきたことからすれば、許されないと主張するが、東京都屋外広告物条例は、屋外広告物法の委任を受けて制定されたものであるから同条例の制定の趣旨、目的及び保護法益はいずれも屋外広告物法のそれと同一であるところ、軽犯罪法及び同法一条三三号前段とは前述のとおりその立法の趣旨、目的及び保護法益を異にするものであるから、ある法規において規制の対象外においたということは、すべての法的関係で規制の対象から外すことを意味するものでない弁護人らの主張は失当である。

五弁護人らは、福田憲一(以下「福田」という。)及び荒木尚孝(以下「荒木」という。)の両巡査が当公判廷で証言した富士銀行蒲田支店前の目撃地点から本蒲六三号の電柱に対する被告人両名の立看板取付行為は、同支店の方に向けて同電柱に取りつけられていた蒲田駅東口町会の高さ約2.28メートル、幅約四五センチメートルの立看板に遮ぎられて見通すことができないので、ましてや荒木巡査が見えたという本件立看板の表の字が見える筈もないし、逆に前記町会の立看板は当然見えなければならないのに同巡査は見えなかつたと述べ、更に被告人両名の本件立看板取付行為の個々の動作に関する同巡査の証言はあいまいであり、また紙ひもで結びつけた方法についても同巡査の証言は、被告人両名の供述と食い違うほか実況見分時の状況とも違つているところ、本件立看板二枚については押収されていないこと等総合して判断すると、福田及び荒木の両巡査が富士銀行蒲田支店前で目撃したのは、正に本蒲二六〇号の電柱に対する被告人両名の立看板取付行為であつてこちらの方であれば両巡査の目撃地点からは優に目撃できるし、又その証言内容とも合致するので、両巡査は本蒲六三号の電柱に対する被告人両名の立看板取付行為を目撃していないと認めざるを得ないから、同電柱に対する立看板取付行為の事実について現行犯逮捕ということはあり得ないし、事実逮捕も行われなかつたのであるから、逮捕があつたとして行われた捜索差押は違法であると主張する。

よつて、検討するに、証人福田憲一及び同荒木尚孝の当公判廷における各供述によれば、本件当日福田及び荒木の両巡査は、午前五時ころ強盗事件発生により、蒲田警察署へ招集され、刑事課の責任者から両名一組となつて糀谷駅方面から国鉄蒲田駅東口方面へかけて逃走した強盗犯人を検索するようにとの命を受け、呑川方面からヒロタ薬局を経て、その前の国電蒲田駅へ通ずる道路の横断歩道を渡つて富士銀行蒲田支店前へあちこちと目を配りながらきたとき、たまたま本蒲六三号の電柱に対する被告人両名の本件立看板二枚の取付行為を目撃したものであり、被告人両名の当公判廷における各供述によれば、被告人平野武男は、本蒲六三号の電柱には富士銀行蒲田支店の方へ向けて蒲田駅東口町会の立看板が針金で結びつけられていたので、その針金を利用してその脇の電柱空間に本件の立看板二枚を紙ひもで結びつけようと考え、同電柱を軸にして一枚を国電蒲田駅の方に、他の一枚をその反対方向の第一京浜国道方面に向けてハの字型(車道側に立つて二枚の立看板を見下したときの形)にして立てかけ、被告人平野よし子は同武男から指示されて、ハの字型の頂点に正対し両手を伸ばしたうえ肩の高さに上げて二枚の立看板を押さえたところ、同武男が紙ひもの一端を前記町会の立看板の駅側の針金に小間結びに結びつけ、次いで紙ひもを持つて同よし子の後を回つて第一京浜国道側の針金に小間結びに結びつけ、二枚の立看板を同電柱に結えたことが認められところ、福田及び荒木の両巡査は、被告人両名の右一連の行為のうち、被告人平野よし子が本蒲六三号の電柱に立てかけられた二枚の立看板を両手で押さえていて、同武男が紙ひもを持つて国電蒲田駅側から同よし子の後を回つて(なお、荒木巡査は、同武男は両腕を拡げ孤を描くような恰好をして移動したと供述)反対側の第一京浜国道側の辺りで紙ひもを結んで二枚の立看板を同電柱に結えたところを目撃したことが、両巡査の当公判廷における証言によつて認められ(もつとも、被告人平野武男の紙ひもを結びつける動作とか結びつけ方及び結び目の箇所等については荒木巡査の証言と被告人両名の供述との間に食い違いがあるが、被告人平野よし子が本蒲六三号の電柱に立てかけられた二枚の立看板を両手で押さえ、同武男が紙ひもを持つて同よし子の後を回つて同電柱に二枚の立看板を結えた一連の行為については、福田及び荒木の両巡査とも一致してこれを目撃しており、その限りでは、被告人両名の供述との間に食い違いは認められないので、前記の程度の食い違いは重要ではない。)、しかも同証言によれば、右目撃した一連の行為は、両巡査が富士銀行蒲田支店前の目撃地点から取締るため前記横断歩道へ引き返すまでの間に目撃したことが認められるので、被告人両名の立看板取付行為も目撃地点も双方とも場所的、時間的にかなりの振幅を持つた一連の行為であるといわなければならない。従つて、福田及び荒木の両巡査が富士銀行蒲田支店前で目撃したという地点から本蒲六三号の電柱に対する被告人両名の本件立看板二枚の取付行為が見えたかどうかを決するにあたつては、目撃者が目撃地点に立つてカメラをかまえ、フアインダーをのぞいて被告人両名の立看板取付行為の一コマを被写体として(すなわち、目撃者及び被告人両名の双方とも一瞬静止の状態にあるものとして)とらえ、この被写体によつて目撃の可否を決するのは妥当ではない。と同時に、立看板とそれを取りつけようとしている者とを切り離して個々別々に目撃の可否を論ずるのも妥当ではない。両者は切り離すことなく目撃地点から目撃できたか否かを決するのが正当である。

そうすると、福田及び荒木の両巡査の当公判廷における証言に当裁判所の検証調書を併せ考察すれば、福田巡査が被告人平野よし子が本蒲六三号の電柱に立てかけられた立看板を押えていて同武男が同女の駅側の方から同女の後方を通つて動いて行き立看板を電柱に結びつけたのを目撃したと指示した地点は、右検証調書添付図面2表示のF点に相当する地点すなわち富士銀行蒲田支店の建物の東角から北西へ約6.4メートル、同支店前の歩道の縁石から南へ垂直に約二メートルの歩道上の交点であり、荒木巡査が被告人平野よし子が本蒲六三号の電柱に立てかけられた立看板を押えていて、同武男が同女の駅側の方に立つていたのを目撃したと指示した地点は、同図面表示のA1に相当する地点すなわち富士銀行蒲田支店の建物の東角から西北西約18.25メートル、同支店前の歩道の縁石から南へ垂直に約1.23メートルの歩道上の交点であり、次いで同武男が駅側から右回りに動いて行くのを目撃したと指示した地点は、同図面表示のA2に相当する地点すなわち富士銀行蒲田支店の建物の東角から北西へ約5.15メートル、同支店前の歩道の縁石から南へ垂直に約2.3メートルの歩道上の交点であるところ、右各指示地点から本蒲六三号の電柱までの距離は、F地点から約21.6メートル、A1地点からは約29.3メートル、A2地点からは約21.2メートルで、その間にある一部見通しを妨げる物としては富士銀行蒲田支店へ向けて本蒲六三号の電柱に取りつけられた蒲田駅東口町会の立看板及び同電柱から国電蒲田駅側にある郵便箱があるか、前記目撃地点から被告人両名の本蒲六三号に対する立看板取付行為は十分に目撃できることが認められるので、前記福田及び荒木両巡査の一致した目撃状況についての証言は十分信用できると考える。

福田及び荒木両巡査の当公判廷における証言によれば、両巡査は、被告人両名が本蒲六三号の電柱に立看板二枚の取りつけを終つたことを目撃したうえ前記横断歩道を渡つたところ、被告人両名は太陽神戸銀行蒲田支店前から同種の立看板二枚を持つてきて、本蒲六三号の電柱から約15.6メートル(当裁判所の検証調書によれば約13.8メートル)第一京浜国道寄りの本蒲二六〇号の電柱に紙ひもで結び終えようとしていたので、被告人両名の近くへ行き(この時点で福田及び荒木の両巡査がきたことは、被告人両名も認めている。そして少くもこの段階では両巡査ともすでに被告人両名が本蒲六三号の電柱に取りつけを終えた二枚の立看板を現認していることは、両巡査の証言によつて優に認めることができる。)、福田巡査が被告人両名に対し警察手帳を示し、「軽犯罪法違反になることを知つているか。」と尋ねた(このような質問があつたことは被告人両名とも認めている。)ところ、同武男は「知つている。」と答え、次いで両巡査が同人に対し「許可を受けているか。」と質問した(質問があつたことについて同人は否定しているが、被告人平野よし子は肯定している。)のに対し、被告人平野武男は「正当な理由のためならば立看板を立てかけてもよいのじないか。」と主張し、住所、氏名についての同巡査の質問に対しては、被告人両名とも黙秘し、そのうちに被告人両名は体の向きを変えてその場から立ち去ろうとする気配を示したので、福田巡査が被告人両名の前に立ちはだかつて制止し、被告人両名に対し「軽犯罪法違反の現行犯だから交番まできてくれ。」といつた(このようにいわれたことは被告人平野武男も認めている)が、被告人両名は直ぐに動こうとしなかつたので、荒木巡査が被告人平野武男の肩に手をかけ「行こう。」といつて、同巡査が先頭になり順次三〇センチ位の間隔をおいて、被告人平野武男、同よし子、福田巡査の順で、ほぼ一列縦隊となり、途中荒木巡査が時たま後を振り返りながら蒲田警察署蒲田駅東口派出所へ被告人両名を連行したことが認められる。従つて、このように警察官が被告人両名の前後に寄り沿つて逃走されないように看視し、何時でも捕捉し得る態勢をとりながら交番まで連行した行為は、逮捕行為に当ると解されるので、連行開始時に逮捕があつたものと認めるのが相当である。この点について、福田巡査の当公判廷における証言によれば、同巡査が被告人両名を交番へ連行するに際して、手錠をかけたり被告人らの腕をとつたりしなかつたのは被告人両名は、現行犯人ではあるが粗暴犯の現行犯人ではなく、軽犯罪法違反という軽微な犯罪の現行犯人であること、被告人両名は体の向きを変えてその場から立ち去ろうとする気配を示したが、同巡査が同人らの前に立ちはだかつたところ制止できたこと、被告人両名に暴れるような様子が見られなかつたこと、犯行場所から交番まで近かつたこと等を総合して判断した結果であることが認められ、なお現行犯人を逮捕する際に逮捕する旨を告げることが逮捕の要件でないことは当裁判所の昭和五四年四月一〇日付決定書に述べたとおりであり、同巡査のとつた措置は妥当であると解する。また同巡査が被告人両名に対する質問を終えた段階で軽犯罪法一条三三号前段の現行犯人に当ると判断したことも正当である。刑事訴訟法二一二条一項の現行犯人と認めるためには、特定の犯罪の存在が明白であり、かつ犯人が明白でなければならないと解されるが、本件の場合犯人の明白性については疑いがないので、これはさておき、犯罪の明白性については、同巡査が被告人両名の立看板取付行為を目撃していることから、その限りでは明白であるが、本件の電柱の管理者の承諾の有無については目撃した限りでの被告人両名の客観的な行為からは必ずしも明白であるとはいい難い。しかし、このような場合には、私人も現行犯人を逮捕することが認められている点からすれば、その後の被告人両名の態度及び供述等により社会通念上右管理者の承諾を得てないことを強く推認させる事実が顕出されたときは、現行犯人と認めて差し支えないと解するのが相当である。これを本件についてみるならば、既に認定したとおり、福田巡査の「軽犯罪法違反になることを知つているか。」という質問に対し、被告人平野武男は「知つている。」と答え、許可の有無についての質問に対しては「正当な理由のためならば立看板を立てかけてもよいのじやないか。」と主張し、被告人両名は住所・氏名を黙秘し、その場から体の向きを変えて立ち去ろうとする気配を示す等の行為に及んだというのであるから、このような事実の顕出は、社会通念上許可のないことを強く推認させる資料として十分であると解する。そして、福田及び荒木の両巡査が被告人両名の本件行為を軽犯罪法一条三三号前段の現行犯人と認め逮捕行為に出たことも正当である。すなわち、既に認定したとおり、被告人両名は、住所・氏名を黙秘したうえ、その場から体の向きを変えて立ち去ろうとする気配を示したというのであるから(もつとも、福田巡査が被告人両名の前に立ちはだかつて制止したことにより、同人らは一旦思いとどまつたけれども、同人らが全面的に逃走の意思をなくしたものでないことは、同人らが交番へ連行された後、間もなく同所から逃走している(福田及び荒木両巡査の当公判廷における証言によつて認められる。)ことからも十分推認されるところであるから)、逮捕の必要性があつた(刑事訴訟法二一七条参照)ものと認めるのが相当である。

従つて、現行犯人逮捕を前提とする捜索差押は適法である。もつとも、本蒲六三号の電柱に取りつけられた本件立看板二枚は押収されていないが、司法警察員湯ノ谷充郎作成の写真撮影報告書添付の司法巡査菊川佳宣の撮影した写真二枚によつて、その状況が保全されているので、支障はない。そして、右立看板二枚が他の立看板二三枚と同時に押収されなかつたのは、荒木巡査の当公判廷における証言によれば、同巡査が押収に先立つて、福田巡査から証拠になる一番最初の立看板は写真をとるからそのままにして置いてくれと蒲田警察署の宿直の方から電話があつた旨告げられたことによるものであることが認められる。ただ、その後も右立看板二枚が押収されなかつたのは、証人河野琢美の当公判廷における供述によれば捜査の不手際によるものと推認する外はない。

なお、本蒲六三号の電柱に取りつけられていた蒲田駅東口町会の立看板については、荒木巡査の当公判廷における証言によれば、同立看板については見えたかも知れないが気がつかなかつたと述べているにとどまり、積極的に見えなかつたと述べているわけではないから、同立看板の存在それ自体を否定したものでないことが認められる。

よつて、弁護人らの主張は理由がない。

六弁護人らは、本件捜査の過程で警察官によつて不当違法な捜査が行われ、それに基いて虚偽の証拠がねつ造された、すなわち福田及び荒木の両巡査が目撃したのは本蒲二六〇号の電柱に対する被告人両名の立看板取付行為であつて、本件起訴にかかる本蒲六三号の電柱に対する立看板取付行為ではないにもかかわらず、恰もこれを目撃した如く装つて被告人両名を軽犯罪法一条三三号前段の現行犯人に仕立てあげ、また一方任意同行したにもかかわらず現行犯人を逮捕して連行したと称して現行犯人逮捕手続書を作成し、現行犯人として逮捕する旨告知していないにもかかわらず告知した旨虚偽の記載をし、更に現行犯人として逮捕していないにも拘らずその存在を前提として捜索差押をして捜索差押調書を作成し(この調書の意味するところは、本蒲六三号の電柱に取りつけられた本件の立看板二枚が押収されていないことを裏付けるとともに、福田及び荒木両巡査の目撃した被告人両名の立看板取付行為は本蒲二六〇号の電柱に対するものであることを根拠づけるものである。)、最後に実況見分調書であるが、司法警察員河野琢美は、福田及び荒木の両巡査が本蒲六三号の電柱に対する被告人両名の立看板取付行為を目撃していないにもかかわらず目撃したことにして、両巡査に目撃地点を指示させたうえ同地点からの見通し状況等について実況見分をし、それに相応する如く図面及び写真を作成して実況見分調書を完成させ、その結果本件公訴が提起されたので、その公訴提起は無効であるから公訴棄却の裁判を求める、と主張する。

一般に捜査手続の違法が重大であつて、それによつて得られた証拠の証拠能力を否定しなければならない場合があり得ることは認められるところであり、その結果として公訴を維持できる見込がない場合には不起訴処分がなされることは十分考えられるところであるが、そのような証拠を除外すれば優に有罪判決が得られる見込みのある場合に公訴を無効ならしめるいわれはない。

弁護人らが虚偽の証拠であると主張する現行犯人逮捕手続書、捜索差押調書及び実況見分調書は当裁判所が証拠として採用していない書証であるから、この点に関する弁護人らの主張は失当であり、又福田及び荒木の両巡査が被告人両名を現行犯人として逮捕したこと及びそれに伴う捜索差押が適法であることは既に認定したとおりであるから捜査手続の違法を理由として公訴棄却の裁判を求める弁護人らの主張は理由がない。

ただ本件においては、被告人両名とも本蒲六三号の電柱に東電広告株式会社の承諾を得ないで、本件の立看板二枚を紙ひもで結びつけた事実については、当初から一貫してこれを認めていることを特に指摘しておきたい。

(佐澤利雄)

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